3月も終わりに近いある日のことですが、終業式が間近なのでしょう。沢山の荷物を抱えた子供たちが楽しそうにおしゃべりしながら通り過ぎていきます。
そんな春うららかなお昼少し前、私は横断歩道を渡り始めました。すると、どこからともなく、
「横断歩道でも右や左から車が来ないことを確かめてから渡るのよ。車にひかれたら死んじゃうのよ!
それも皆で死ぬんじゃないの。一人で死ぬのよ。
死んだら誰にも会えなくなるのよ。そんなの嫌でしょ!」
とたたみかけるような、言い含めるような若いお母さんの声……その合間合間には「うん」「うん」と頷くような声がし、最後に「うん、いやだ〜」という寂し気な声が聞こえてきました。
どんな母子なのかしら、と私は歩を緩めました。
するとまだ未就学か、今年新入生になるかどうかの年端の行かない小さな女の子がお母さんに手を引かれていました。
「あららら、こんな小さな子に死の恐怖を教えている……」と私の心はざわざわしました。
もちろんお母さんは大切な我が子を交通事故から守りたい一心なのです。我が子を愛する余りの言葉なのです。
であってもですよ。「みんなで死ぬんじゃないの。一人で死ぬのよ。誰にも会えなくなるのよ」という恐怖心を植え付ける言葉は避けてほしいと思いました。
それよりも「命は一つしかないから大切にしようね。だから車に注意しようね」と命の大切さや貴さから教えてほしいと思いました。
その一方で、死の正しい意味を知らないお母さんが親として注意を促すには、それがいっぱいいっぱいの言葉だったのかもしれない……
もし今年新入生になるとしたら、初めて親の手を離れて通学する我が子が心配で心配でならないのかもしれない……
あの言葉はお母さん自身が自分の心配を消すためのものなのかもしれない……
だとしたら、理解できるなぁと同情しました。
そもそもお母さんが“死”について何も知らないのです。
もしかすると「死んだら全てが終わる」と思っているのかもしれないのです。
しかし、たとえそうであっても年端の行かない小さな子に死を恐怖として教え込むことは避けてほしいと祈らずにはいられませんでした。
それに“死”は交通事故に遭わずとも様々な形で訪れますから、“命は貴く大切なもの”という観点から事故に遭わないよう優しく諭してほしいと思いました。次の“年少さん”の詩のようにです……
「交通安全教室」
きょうね けいさつがきたよ
みぎみてひだりみて
みぎみてひだりみて
わたるんだって
いのちはね
いっこしかないらしいよ
だからみぎみてひだりみて
みぎみてひだりみるんだよ
私は桜咲く道を遠ざかっていく母子の背に「死は怖いものでないのよ、喜ぶべきことなのよ♪」とそっと語りかけました。届いたかしら……
2019年04月15日