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【第24回】 スピリチュアリズムの祈りとは… - 2

先回に引き続きスピリチュアリズムの祈りについて見ていきますが、今回は
  1. 最高の祈り・究極の祈りとは

  2. 祈りの反応について
それぞれ見ていきたいと思います。

3. 最高の祈り・究極の祈りとは
シルバーバーチは、祈りの言葉は「何とぞ私を人のために役立てる方法を教え給え」というたった一言しかないと言っています。又「大霊とその子等のために一身を捧げたいという願いほど崇高な愛はない」と言っています。これによって、究極の愛とは自分を人のために役立てることであり、それを願う祈りが、最高の祈り・究極の祈りであることが分かります。それは又、利他的行為でもあります。

祈りの言葉には、祈る者の日頃の思いがそのまま反映しますから、霊性が高ければ高い祈りとなり低ければ低い祈りとなります。そこで真理を知った私たちスピリチュアリストは、常に最高の祈り・究極の祈りが出来るよう日常生活の全てにおいて霊主で利他的な生き方を心がけ、常に高い心境を保つ努力をしていかなければならないと思います。

そうすれば、自然と内容の高い祈りができるようになり、その祈りのバイブレーションが同じような思いを持つ高い霊に届き、私たちはその力を存分に使用することができます。
つまり、私たちは自分の霊的レベル(霊性)に応じた宇宙エネルギーを使用できますが、高いエネルギーを使用するには、霊性を高めて常に自分を高い心境に置くことが必要だということです。

4. 祈りの反応について
「祈っても反応がないように思えるのはなぜか」という質問に対しシルバーバーチは次の3つの場合を上げて説明しています。
  • 反応がないようでも、正しい祈りなら成果はある
    「宇宙はより高く、より美しい世界に向けて日々進化し続けており、正しい祈りは反応がないように思えても、進化の一端を担っている」とシルバーバーチは言っています。

    つまり、正しい祈りには、地上界全体の霊的意識レベルを高め霊的進化を早める力があるということです。ですから、その気になって正しい祈りをすれば、私たちは誰もが地上界の進化と美化に寄与することができるのです。
    反対に低い祈りや的外れの祈りは地上界を汚し霊的進化を遅らせます。

    祈りに限らず、私たちの思念は地上全体の霊的意識レベルを良くも悪くもしますから、日頃から自分の思念に注意を払い常に高い霊的意識レベルを保つように努力をすることだと思います。


  • 間違った祈りに反応はない。聞かれることはない。
    魂の成長にとってマイナスになるような、自分中心の次元の低い祈りやこの世の利益を求める祈りは、いくら祈ったところで聞かれるはずがありません。

    人類の親である神の願いは、子供が霊的に成長することですから、成長のマイナスになるようなことが聞かれるはずがないのです。親だからこそ間違った祈りに反応しないのです。私たち子供の務めは、親が反応を示してくれる高い祈りをすることだと思います。それは又何よりの親孝行です。


  • 霊界側が授ける準備をしているものを祈る場合
    人間が要求するものの中には、霊界側がすでに授ける準備をし、実現させるタイミングを図っているものがあります。
    しかし、それは人間サイドには全く分かりません。そこで私たちは祈りの反応がすぐに現れないと、祈りの成果がないように思ってしまいますが、実はそうではなく、霊界側はここぞという好機を見て与えようとしているのですから、霊界の導きを信じて辛抱強く待つことだと思います。忍耐力を養う好機でもあります。

次に、祈りと許し(祈りと摂理)の関係を見ていきます。
摂理が絶対的支配をしている以上、許しを乞うても許されるはずがないのに、なぜ人間は許しを乞うて祈るのか、という質問に対してシルバーバーチは、「許されればそれで償いが済むわけではないが、しかし許しを乞うという行為は、魂が自らの非を認めた証であり、摂理と調和しようとする行為の始まりであり、本当の進化の始まりである」と言っています。

許しを乞うという行為は償いの第一歩に過ぎませんが、そこから本当の償いが始まります。

多くの宗教では許しを乞えば、罪は消えるように説いていますが、それは明らかに間違いです。
「神には愛があるのだから、許しを乞えば罪が許される」と思うのは「神の愛」の身勝手な解釈に過ぎません。たとえ神に特別の配慮を願い出ても、「罪と罰の法則・償いの法則」を変えることはできませんし、それができるとしたら神は自分で作った摂理を自ら犯すことになります。

そこで、それらの法則を作った神の御心を推察すると、それは罪を犯した者たちを救済することにあると思います。
法則に則ってその者たちに罪を償わせ、もう一度霊的成長の正道に立たせようという親心です。
私たちを常に愛しその成長を願っている神の目的は、私たちを苦しませたり罰することではなく、罪を犯した者に再び霊的成長のチャンスを与えることにあります。

こうしたことに理解がいけば、法則が作られたのも、正すチャンスが与えられているのも、全ては神の愛であることが分かります。絶対不変の愛・真実の愛とはこういうものを言うのです。
一時の慰めや同情や表面的な優しさではなく、永遠を視野に入れた厳しい愛・霊的成長を促す愛こそが本物の愛だと言えます。

そうと分かれば償いも苦しみも神の愛の一環として素直に受け入れられると思いますが、苦しみの最中でそう思うのはなかなか難しいかもしれません。しかしこれ以上の深い愛はないのですから、真理を手にした私たちは、その最中にあってこそ精一杯神の愛を感じたいと思います。

以上、祈りの主要な部分について見てきました。以下は補足です。


祈る場所について
霊的行為である祈りが、物的条件に左右されることはありませんから、祈る場所はどこでも構いません。
寺院や教会の大聖堂ばかりが神と交わる場所ではありません。重要なのは祈る内容とその姿勢です。それさえ間違わなければ、祈る場所はベットの上でも、リビングでも構わないと思います。祈りに大切なのは場所でないことは確かです。

平和実現のための祈りについて
人々は世界平和を願って祈りますが、それを実現させるにはどう祈ればいいのか、さらにどういった言葉で祈れば最も効果があるのか考えてみましたが、平和に向けての特別な祈りなどあるわけがなく、究極の祈りがそのまま平和への祈りになると思いました。

なぜなら、平和を招来するのは一人ひとりの心の内にある物欲と利己主義をなくすことが必須の条件だからです。
最高の祈り・究極の祈りには、それらを排除し浄化する力と、祈る者の心を神の心へ近づける作用がありますから、世界中の人々がこうした祈りをすることは、世界を平和に導くことになると思います。

結論としては、平和に向けての祈りも、最高の祈り・究極の祈りと同じであるということ、そしてどんな時もどんな場合もこれに優る祈りの言葉はないということです。

以下は正しく祈った場合に現れる効果ですが、全ては霊的効果であることが分かります。
  • 霊的意識が高まる。

  • 霊的エネルギーが蓄えられる。

  • 利他愛実践のパワーが高まる。

  • 神意識が得られる。

  • 霊の援助を得られる。

  • 心が純化される。

  • 心の安らぎを得るひとときとなる。

祈りとは、神の前で日常生活の重荷を降ろし、素になって一対一で対面することであり、祈りのあとには、心が清められ利他愛実践に向けての意識が、高まっていなければ正しく祈ったことにはなりません。
正しい祈りは、地上天国実現の強力な手段になりますから、まずは私たちスピリチュアリストが、日々の生活の中に正しい祈りを定着させていくことだと思います。


追記
つい先頃まで私は霊的効果が得られるような高い祈りが出来ませんでした。その原因は日頃の霊的意識レベルの低さにありました。日常生活で下がった霊的意識を高めるのが祈りの目的ですが、日常の霊的意識レベルがもともと低い状態なのに、祈りによって一時的に霊的意識を上げて高い霊的効果を得ようとしても土台無理なのです。日頃から霊主で利他的な生き方をして常に霊的意識レベルを上げる努力をしていなければ、祈りの時だけそう願ってもそれは叶わないということです。日常がいかに大切であるかが分かりました。

2005年07月21日