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【第23回】 スピリチュアリズムの祈りとは… - 1

宗教に付きものの祈りですが、たとえ無宗教・無神論者であっても、一度も祈りをしたことがないという人はいないと思います。人は窮地に立つと自然と神に救いを求めて祈りたくなるものですし、願いごと程度なら子供でもします。
神の存在を信じようと信じまいと、信仰心があろうとなかろうと、自分より大きなものにすがりたくなるのは人間の自然な姿であると思います。

私は、祈りは宗教上の儀式であり、取り立てていうほどの意味もなければ効果もない、形式的なものだと思っていましたので、シルバーバーチの霊訓に出合うまでは、祈りの重要性を全く知らずにいましたが、それでも祈ったことがないわけではなく、窮地に立てばいつの間にか神に向かって手を合わせていました。

祈りには、こうした個人レベルでの祈りの他に、集団で祈る国家レベルの祈りがあります。毎年8月15日の終戦記念日に行われる世界平和への祈りはその代表的なものですが、果たして祈りは本当に効果があるのでしょうか。もしあるのであれば祈りたいことは山ほどあります。

スさてピリチュアリズムでは、祈りは魂を成長させる実践項目の一つに数えられていますが、それほど重要で意味があることなのだと思います。そこでスピリチュアリズムの祈りの意味とその効果について、今回と次回の2回に分けて「シルバーバーチの霊訓」の8章(祈りの効用)とニューズレター4号から学んでいきたいと思います。

祈りを正しく理解するために4つの項目に分けて見ていきますが、今回はまず、
  • 祈りの効果について

  • 祈りの本質と正しい祈りとは

この2つについて見てみます。「3.最高の祈り・究極の祈りとは」「4.祈りの反応について」は次回に回します。

1. 祈りの効果について
私たちが祈る時に最も気になるのは、祈りに効果はあるのかということだと思います。
シルバーバーチは摂理に適った祈りであれば効果があり、摂理に適っていなければ効果はないと明確な答えを出しています。つまりスピリチュアリズムの祈りとは摂理に適ったものでなければならないということです。

全てが摂理によって支配されている以上、摂理に適っていない自分中心の願い事は、いくら祈ったところで無駄であるということですが、そうなると祈ることに一体何の意味があるのか疑問が湧いてきます。
祈っても祈らなくても摂理どうりにしかならないのであれば、祈る意味もなければ効果もないように思いますが、それに対しシルバーバーチは「効果はある」と言っています。

ただしそれは人間が期待する物的効果ではなく霊的な効果です。その霊的効果とは、祈りによって霊的意識が高められ背後の霊との一体感が強化され、神の道具としての意識が引き上げられることをいいますが、それは滅私となって神の御前に進み出で「どうぞ私を同胞のため、全人類のために使って下さい」という摂理に適った祈りの中でしか得られません。

ですから、結論は祈りに対して何を求めるかで違ってきます。
祈りに、霊的成長や、霊的一体感や、霊的安らぎを求めるならば、「効果はある」ことになり、物的なものを求めるならば「効果はない」ことになります。しかし霊的効果が物質次元に転換されることが全くないのかと言えばそうではなく、様々な条件が揃えば、物質次元に転換されることもあるようです。

さらに、祈りの効果を詳しく理解するために項目別に分けて見ていきます。
  • 人のために祈ることに効果はあるのか。
    これについてもシルバーバーチは「効果はある」と断言しています。ただしこの場合も摂理に則った形での効果であると言っています。

    我が子の病気の快復を願う母の懸命な祈りは、聞き入れてほしい祈りの一つですが、摂理は人間の思いと関係なく働きますから、いくら一生懸命に祈ったところで治る時期が来なければ治りません。
    それと同様、治療家による遠隔治療の祈りも摂理に則った形での効果であり、治る時期が来ていなければ治らないのが摂理です。


  • 聞き届けられない祈りとはどういうものか。
    その1─霊的成長を遅らせるものを祈った場合。
    具体的には、私利私欲や苦難の軽減などの物質欲や自分中心の次元の低い祈りです。宗教で行われている祈りや一般の人々の祈りは全てこうした祈りです。

    その2─手にする資格のないものを祈った場合。
    例えば、病気を一瞬にして治してほしいとか、超能力者にしてほしいなど摂理から見て到底手にする資格のないものを要求する祈りです。


  • 効果のない祈りとはどういうものか。
    口先だけでの祈りや形式だけの祈り、機械的な祈りは、空気に振動を起こすだけで効果は全くありません。教会の主の祈りや般若心経の読経など、祈りの言葉の意味も考えずにただ習慣的に唱える呪文のような祈りはそのよい例です。


  • 奇跡を願って祈っても聞かれることはない。
    神の摂理は完璧であり、摂理を超えて起こることは何一つないのですが、それでも人間は奇跡を願って祈ります。
    自分だけに特別な配慮をと願い、自分だけに摂理の例外を起こしてほしいと祈ります。しかし、そんな都合のよいことが起きるわけがありません。従って奇跡は起きません。

    ※注釈
    不治といわれた病が治ると人々は奇跡が起きたと言いますが、それは治る時期(治るのに必要な霊的段階)に来ていただけのことであって奇跡が起きたわけではありません。

2. 祈りの本質と正しい祈りについて
祈りの本質は次の3つです。
利他愛を実践するために魂を整えること。
利他愛実践のために霊的エネルギーを高めること。
より高次のエネルギーと調和するための手段。すなわち自分の心霊状態を高め、霊的レベルを引き上げ、日常では得られない霊的エネルギーを取り入れること。

以上のことから、祈りの本質は内的で、純粋な霊的活動であることが分かります。
正しく祈ることによって、日常では得られない宇宙の高次の霊的エネルギーを吸収することができ、その霊的エネルギーが祈った者を、神の道具としてより相応しくより逞しくしていきます。そのためには、祈る内容と姿勢に注意しなくてはなりません。

すでに述べましたように、祈る内容として適さないものは、自己中心の祈りや願いごとや、私利私欲が絡んだもの、物欲から出たもの、奇跡を期待するもの、手にする資格がないものなどです。祈る姿勢として好ましくないのは、機械的・形式的な口先だけの祈りです。

さてここでの結論ですが、祈りの本質は偉大な霊的行為であるということ、そして正しい祈りとは、霊的摂理に適ったことを、自分の言葉で誠心誠意真剣に祈るということではないかと思います。

次はスピリチュアリズムと一般の宗教の祈りに対する捉え方の違いを見てみます。
スピリチュアリズムの祈りは、あくまで心を摂理に一致させ、心霊を高める手段であって目的ではありません。ですから祈れない時は無理に祈ることはないとシルバーバーチは言っています。心霊を高める手段は他にもあります。

これは他の宗教とスピリチュアリズムの大きな違いです。祈りそのものが目的になっている宗教では、祈らないのは信仰がないとみなされますが、スピリチュアリズムでは、祈る気にならない時は無理に祈ることはないのです。
祈れば霊的効果が得られ、霊的成長のプラスになりますが、祈らないからといって霊的にマイナスになることはありません。
祈る気にならない時は、霊訓を一気に全体を通して読むことで祈りと同じ効果を得ることができます。

さてここで、祈りにおける霊界と地上の違いを見ていきます。
霊界では祈りはそのまま目的になりますから、祈ればストレートに生き方や行為になります。
しかし、霊界と事情が異なる地上では、祈りは手段になっても目的にはなりませんから、行動を起こさない限り結果を得ることはできません。

いくら思念(祈り)に力があるといっても、物質が認識の基本になっている地上では、思念の力にも限界があります。
ですから人間的問題を、思念的行為の祈りで解決しようとしても無理だということです。つまり地上での祈りは、肉体を使って行動するための手段にはなっても人間的行為の代用にはならないということです。

結論としては、地上のことはあくまで肉体を使って成就していかなければならないということになりますが、しかし祈りには決意表明・宣誓の意味あいがありますから、行為の代用にはならなくても、行動を起こすための強力な手段になり得ることに理解がいきました。

2005年07月07日