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【第22回】 江原啓之著「スピリチュアルメッセージ」について
ひところと違い今では「スピリチュアル」という言葉をよく耳にするようになりました。精神世界の本のタイトルにも頻繁に使われ、この言葉が人々の間に浸透していくことは大変喜ばしいことですし、これから向かう霊中心の世界への前兆のようで嬉しく思います。が、しかしそれが正しく理解されているかと言えばそうではありません。スピリチュアルなものは、目に見えないだけに余計に注意が必要です。真理をうまく取り入れ自己流にアレンジしている代表として今回は江原啓之氏の著書「スピリチュアルメッセージ」を取り上げますが、これは江原氏の個人的批判ではないことを始めにお断りしておきます。
同じ時代に地上に生を受けた神の子である霊的同胞について、取り上げるのは気が進みませんが、敢えて取り上げた理由は二つあります。
その一つは、江原氏のスピリチュアリズム関連の著書が予想以上に多くの人々に読まていることです。
これらの本は、書店でパラパラと見るだけで自己流にアレンジしたスピリチュアリズムであることは一目瞭然ですが、こうした書籍が、人々に受け入れられ広く読まれていることに対し、本物の真理を知った者が警鐘を鳴らすのは義務であり利他愛であると思います。
この内容で、なぜ人々の心を掴むのか正直なところ私には理解できませんが、真偽を見分けられなければ当然のことかと思います。
これらの本は、女性受けする洒落た装丁で、文章は軽く文字は大きく余白もたっぷりあって、手軽に読める印象を読者に与えます。それに対してシルバーバーチの霊訓は、60年に亘る膨大な霊界通信であり手軽に読める内容の本ではありません。しかし、本当の価値はその内容にあるのですから、よく読んで吟味して頂きたいと思います。
シルバーバーチほどの高級霊でさえ、自分の語る内容に「理性を用いてよく検証しなさい」と言っています。ですから江原氏の著書の読者の方々には、その内容について今一度理性を用いて検証し、本物の高級霊界通信であるシルバーバーチの霊訓と比較し、違いを明らかにして頂きたいと思います。
もう一つの理由は、私にはニセ霊能者と分かりながら、どこがニセであるのか論理的な検証ができないために、翻弄された体験があるからです。ニセ霊能者は、真偽を織り交ぜ言葉巧みに語ります。私の場合もそうでした。
「地球を浄化してエデンの園を作る」という魅力的な言葉に引かれて、多少おかしなことがあっても構わない、少々のことで目くじらを立てるのはやめようと思っていました。
理性を用いて真偽を見極めるべきところを、間違った寛容心で、理性を押さえ込んで自分をごまかし続けていました。
また霊的なことを知りもしないで疑うのは霊能者に対し失礼にあたるという思いもありました。しかし、ニューズレター19号に書かれているニセ霊能者の見分け方に照らして検証してみたところ、私が「おかしい、変だ」と思っていたことの全てが、ニセの証であることが分かりました。
霊能者の語る内容が100%嘘であれば誰も信じませんが、嘘の中に僅かでも真実が入っているとそれだけで簡単に騙されてしまいます。本当はそれがニセ霊能者の手口であるのです。1%でもおかしいと思うことは、徹底して検証しなければならないのです。
本物もあれば偽物もある玉石混合が世の中ですから、一人ひとりが自分の理性でしっかりと見極めていくことだと思います。そして真実を知った者は、ニセに対して警鐘していくことだと思います。
こうした理由から、江原氏の著書である「スピリチュアルメッセージ」の内容を考察し、本物のスピリチュアリズムとはっきり区別する必要性を感じました。
江原氏は霊能力が有るそうですがそれについてはここでは触れません。有るのか無いのか分かったところで霊的な意味がないからです。
江原氏に対する一番の疑問は、江原氏がシルバーバーチの霊訓を読んでいながら、なぜ自分の著書をわざわざ出版したのかということです。
シルバーバーチの霊訓は、3000年前に地上で暮らした人間が、死後に体験した霊界の様子と宇宙の摂理を、地上人に知らせてきた人類史上始めての高度な霊界通信であり、それが本物であることは、江原氏自身が始めての著書「人はなぜ生まれ、いかに生きるか」で認めています。
そして、江原氏はこの著書の中で純粋にスピリチュアリズムを讃えています。それなのに、なぜ後になって我流のスピリチュアリズムもどきの著書を出版したのでしょう。
その理由は、一言で言えばシルバーバーチの霊訓の普及に徹することが出来なかった、つまりスピリチュアリズムの普及員・宣伝役で終わりたくなかったということです。
シルバーバーチの霊訓を広めたところで、江原氏独自のものではありませんから、得になることは何もありません。
オリジナルでない限り江原氏の手柄にはなりません。真理を正しく理解した者であれば、霊界の道具になることほど価値ある地上人生はないのですが、物質次元で見ると骨折り損に映るのかもしれません。これが独自の著書を出版した理由だと私は思います。
江原氏が真理をどこまで理解しているのか分かりませんが、本当に理解していたなら自己流のスピリチュアリズムを展開することはなかったと思います。またもし理解していながらそうしたのであれば、その罪は重いといえます。
江原氏は書籍の出版以外に、マスメディアを使って様々な霊能活動をしていますから、人々の中には江原氏によって救われたという人もいるでしょう。しかしそれは本当の魂の救いではありません。
魂の救いは自力でするのが摂理ですから、いかなる者にも他人の魂を救済することはできません。しかしながら、霊界の善き道具となって一途に真理の普及にあたったなら、間接的に人の魂を救済することができるのです。それ以外に魂を救済する方法はありません。
そうした事情を知りながら、自己流スピリチュアリズムを展開させている江原氏は、摂理に反しています。摂理を知った者は摂理に従わなくてはならないというのも摂理ですから、自分勝手な暴走・独走は許されるものではありません。
江原氏によって救われたと言う人に是非とも知って頂きたいのは、その救いは一時的な救いにしかなっていないということです。真の救い・永続的な救いは、スピリチュアリズムにしかできないです。それを伝えていくことも、スピリチュアリストの義務であると思います。
さて次はその本の内容ですが、本物の真理を読んだ者であればその違いはすぐに分かります。
江原氏の著書を感覚的に言えば、本物を薄めに薄めた感じです。読み応えのなさ、中身のなさは、まるで流動食が喉元を通過するように魂を素通りし、心に響くものや魂を感動させるものが何一つとしてありません。
文体に至っては江原氏の指導霊とされる「昌清霊」が戦国時代の武士であったとしても「ぬしら」「なのじゃ」の古代語は不自然です。著書には、「氏を通して語られた言葉の中には、今では使われなくなったものが混じっているので、意味の分かりにくい言葉に限り一部現代語に置き換えている」と記されていますが、これは疑われるのを予測して事前に断りを入れたとしか思えません。使われている言葉の基本は、現代の東京語であり、語尾の「ぬしら」「なのじゃ」などの古代語とは噛み合わず読むのに困難を極めます。
こうした不自然な言い回しは、指導霊が戦国時代の武士「昌清」であることを印象づけるために、江原氏が演出したものなのか、あるいは通信霊がこうしたチグハグな言葉で通信して来るのか、そのどちらかであると思います。
シルバーバーチほどの古代霊(古さにおいてシルバーバーチと昌清霊とではかなりの差がある)でも、現代の言葉で語っており、高級霊が当時の言葉(古代語)で語るケースはありませんから、言葉の使い方一つとっても高級霊界通信と合致しません。
江原氏は真理を巧みに利用しているだけに、本物の真理に出合っていない人の心を捉えるのかもしれませんが、少し考察しただけで沢山の矛盾点があり、昌清霊言は高級霊界通信でないことは明らかです。
江原流スピリチュアリズムの論理的な考察や検証は、いずれニューズレターでなされると思いますので、詳しくはそれを待ちたいと思います。
私たちがここから学ぶことは、人間の弱さと煩悩や欲望の凄さです。それは真理に出合い一度は道具になろうと決意した者をもろくも崩します。
道具に徹する上で何より必要なのは自己を滅却することですが、そのためには、自分より高いものへ絶対の信頼を置くことから始めなくてはなりません。
次に必要なのは地上的なものを捨て去る勇気と潔さです。それが出来れば謙虚で誠実な道具になれるのですが、実践は言葉でいうほど簡単ではありません。しかしそれを実践しているサークルがあります。日本スピリチュアリズムサークル「心の道場」です。
神と神の摂理へ絶対の信頼を置き、地上的なものに意識を向けず霊界の道具となって、一途に真理普及に人生を捧げておられます。一流のスピリチュアリストを目指す者の良き手本です。
人は修養的生活を嫌いますが、それが地上人生の真の目的ですし、霊を主にした利他的生き方をする者に煩悩や欲望は近づきません。煩悩や欲望は肉主霊従や利己主義によって生み出されるものだからです。
江原氏は霊的真理を手にしたものの、真理に背き我流のスピリチュアリズムの世界を展開させ、その中心に自分を置きました。それは江原氏が真理に出合うまでの霊界の導きをも裏切っていることになります。
江原氏の守護霊は、目を覚まさせようと懸命な働きかけをしていると思いますが、私個人としても同じ神の子としてスピリチュアリズムに対する姿勢を、一日も早く正してくれるよう願っています。
最後にニューズレターの一文を挙げます。
霊的真理を手にした私達スピリチュアリストの使命は、真理と照らし合わせることによって、偽物や不正が横行できないように監視していくことなのです。
2005年06月16日(ニューズレター18号)