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【第27回】 動物愛護と肉食について思うこと
最近、読書会についての問い合わせや参加された方が、必ずと言っていいほど肉食の問題を話題にされます。「肉食をしている自分でも読書会に参加してよろしいでしょうか」とか「自分はまだ肉食をしているのですが…」とおっしゃいます。
肉食については、シルバーバーチが摂理に反する行為であると言っていますし、ニューズレター27号や続スピリチュアリズム入門には「肉食をしてはいけない理由」が詳しく述べられていますから、ここで取り上げる必要はないのですが、敢えて取り上げたのは、読書会は真理を学ぼうとしている方であれば肉食の問題とは関係なく参加して頂きたいと思うからです。
当会でも、「肉食はやめるべき」という考えをコラム(13回)で打ち出していますが、私にしても肉食を完全にやめたのは高々数年前のことであり、肉食に関しては一人ひとりが克服していく課題だと思っています。
ですから、肉食をしているからと言って、読書会に参加する資格がないわけではありませんので、是非参加して頂きたいのですが、ここで、もう一度動物愛護と肉食について考えたいと思います。
ニューズレターに書かれているように、肉食の問題はスピリチュアリストとしての試金石だと思います。肉食をすることは、動物の生きる権利を奪うことになりますし、利他愛という神の摂理に反する行為でもあり、飢餓や健康面から考えてもすべきでないことは確かです。
あとはそれを、私達が日々の生活の中でどう実践していくかですが、私の体験では、摂理が実生活に活かされるようになると、次第に動物への愛護の気持ちが強まり、肉食をしなくなると思います。
つまり肉を食料と見なさなくなるのですが、そうなるまでは、ニューズレターに述べられている方法で、肉食を減らすように努めるとよいと思います。
又、肉食をやめるには、動物が霊的に見てどういう存在なのかを、理解することも大切だと思います。
それについては「シルバーバーチの霊訓8」の7章(愛すべき仲間たち─動物)の中に述べられていますので、詳しくはそこをお読みいただくとして、その中で特に心に残った一節を上げてみます。
霊的向上を望む者は、いかなる犠牲を払っても大自然の摂理と調和して生きる覚悟が出来ていなければなりません。
その摂理は霊的なのです。霊が発揮すべき側面はいつの時代も同じです。愛と慈悲と寛容と同情と協調です。こうした原理にしたがって考えれば、食すべきものを食し、飲むべきものを飲み、正しい生き方に導かれます。
しかし、最終的に選択するのはあなた自身です。そのために神は自由意志というものをお与えになっているのです。
ここに述べられているように、全ての選択は最終的には一人ひとりの問題ですが、もし霊的向上を望むのであれば、摂理に調和して生きる以外に選択の余地はありません。その摂理は霊的なのです。霊が発揮すべき側面はいつの時代も同じです。愛と慈悲と寛容と同情と協調です。こうした原理にしたがって考えれば、食すべきものを食し、飲むべきものを飲み、正しい生き方に導かれます。
しかし、最終的に選択するのはあなた自身です。そのために神は自由意志というものをお与えになっているのです。
肉食の問題もその一つであり、摂理に調和して生きようと決意した者には、肉食をやめるという選択しかないことが分かります。肉食をしながら大自然の摂理に調和しようとしても、それは無理なのです。
この夏私は、牛の出産に立ち会う機会がありました。残念ながら死産でしたが、死んだ仔牛に対する母牛の姿は感動的でした。やはり魂的に哺乳動物は人間に近いことを感じます。
シルバーバーチは、動物は「動物の段階を終えれば、人間へと進化する」と言っていますし、人間界への誕生は二種類あって古い霊が再び地上へ戻って来る場合と、動物界から始めて人間へ誕生してくる場合があることを「ペットが死ぬとき」(ハート出版)の中で明かしています。
ということは、動物は霊的に見て人間に近しい存在であることと、今いる地上人類の中には、今回初めて動物から進化してきた人間がいるということです。こうしたことを考えると、私達が動物に愛情を感じるのは当然のことであり、食料にすべきものではないと改めて思います。
シルバーバーチの言葉です。
神が動物に霊性の息吹きを吹き込んだように、あなたがた人間も動物に対して同じことが出来るのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で、人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹きを吹き込む能力を備えています。
つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るのです。
つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るのです。
(シルバーバーチの霊訓5/90ページ)
追記
店頭のショーケースに並べられている肉は調理しやすいよう、きれいに処理されていますから、殺害のイメージが湧かないかもしれませんが、そこに並べられているということは、その前に残虐な行為が行われたということであり、それを忘れてはならないと思います。
生命を奪うことは、気持ちのよいものではありません。もし、動物を自分の手で殺害しなければ食べられないのであれば、かなりの人が肉食をやめるのではないかと思います。
アサリやシジミの類いでも、元気に潮を吹いている愛らしい姿を見ると、調理する時一瞬申し訳ない気持ちになります。まして哺乳動物には、意識があり人間により近い存在なのですから、食料にすべきでないことは確かです。
2005年10月15日