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【第85回】 ニューズレター48号から思うこと - 2
先回に続いて二ューズレター48号から学んだこと、思ったことを、本文を引用しながらお話させていただきます。まず今回一番強く感じたのは、神の摂理の絶対支配です。神と人間の間に介在するのは摂理のみであり、人間は摂理を通して神の絶対支配を受けていることを強く感じます。
その摂理は周知の通り人間を善い方向へと導くためのものです。ですから摂理に一致して生きていれば、霊的成長はもとより健康も幸福も手に入ります。
であるならば絶対に摂理に一致して生きていこう!と思います。それがまた最も賢明な生き方であると思います。
それでは本文を引用しながらお話を進めて参ります。
利他性とは、一つの個が全体のために奉仕し、全体に協力し、全体の秩序と幸福を優先するあり方です。そのとき個は大きな世界の一員となって、より大きな幸福に浴するようになります。
これは「幸せになりたいなら、全体のために生きなさい」ということであり、「幸せとは、全体に奉仕して始めて得られるものである」ということですが、ここで重要なのは、これが“摂理”であることです。(NL48号/11ページ)
“人への奉仕が尊い”ことは大半の地上人が知っていますが、それは道徳的範疇でそう思っているだけで、“摂理”だとは思っていません。
しかし人への奉仕は正真正銘の摂理なのです。「奉仕するのは善いことだ」という程度のものではないのです。
奉仕(利他性)は摂理であり、守らなければ(奉仕しなければ)、霊的成長も健康も幸福も手に入らないのです。
そこで私は、「毎日は人への奉仕のためにある」と思うことにしています。「地上に生まれてきたのは人へ奉仕するためであり、人へ奉仕することが私の人生の真髄である」と心して毎日を送ることにしています。
心が「利己性」という神の摂理から外れた状態に陥ると、心には苦しみ・痛みが発生して異常を知らせるようになっているのです。その“心の痛み”とは、恐れや不安・孤独・寂しさ・虚しさ・悲しさであり、暗さやエネルギーの欠乏感です。
霊的存在である人間の最大の苦しみは心が利己性で占められることですが、それを“心の痛み”として警告音で知らせてくるとは、神の摂理はどこまで完璧なのかと驚嘆します。(NL48号/12ページ)
それはまた神が私達にどこまでも利他性を求めている証拠です。であるならば警告音が鳴ったら、直ちに自分の心を利己性から利他性へと改めたいと思います。
人間が神の摂理と一致し調和状態にあるとき「霊的エネルギー」は順調に全体を循環し、各構成部分が活性化されるようになります。
「霊的エネルギー」の順調な循環にも、摂理との一致が不可欠とは驚きますが、人間が霊的存在であることを思えば当然だと思います。(NL48号/14ページ)
それは霊である人間の健康に“霊主と利他性は欠かせない”ということであり、霊主で利他的に生きなければ(摂理に一致しなければ)“病気にもなる”ということです。
ああ!それにしても神はどこまで私達に摂理との一致を求めて来るのでしょう……どこまでいっても摂理との一致、そればかりです!!!
であるならば、絶対に摂理に一致してやるぞ!と私は強気になって思います。
心が神の摂理と一致しているとき、心の底から「利他愛」が溢れ出るようになります。そして心は平安と希望と自信に満ち、働く喜び・奉仕の喜びが湧き上がり、周りの人々や動植物への愛の思いで占められるようになります。人類全体の幸福を願い、常に祈りを捧げたいような心境になるのです。
全く書かれている通りです。人類や他の生命体への愛の思い(利他愛)は、摂理と一致したとき自然と湧き出てくるのは体験からよく分かります。(NL48号/19ページ)
その愛の思いは、全人類のために自分の人生の全てを捧げても惜しくないという滅私の思いとなり、自己犠牲を喜びへと変えていきます。
つまり全人類への愛が、奉仕の思いを沸き立たせるということです。「全人類へ奉仕する力を、どうぞこの私にお与えください!」と一日何度も神に祈りを捧げるのも、全人類への愛の思いがあればこそです。
(次回に続きます)
2010年03月15日