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【第48回】 「肉主霊従」で生きることの恐ろしさ

今回は、アラン・カルディック著の「霊との対話─天国と地獄II」(幸福の科学出版)から学んだことをお話したいと思います。
採り上げるのは、102ページの──快楽の追求に人生を費やした、ある遊び人の後悔──からですが、この通信は、地上時代を「自分さえよければいい」という生き方をしてきた霊からのものです。

まず始めに「霊媒の指導霊」からのメッセージを引用します。
物質的な影響は墓の彼方まで付きまとい、死んだからといってすぐ欲望が消えるわけではないので、地上にいたときとまったく同様に、自分の欲望を満足させる手段だけを探しつづけるのです。霊的な糧を探したことのない彼らの魂は、霊的な糧しかない霊界にあって、果てのない砂漠の中をさまよう人間と同じように、完全な空虚の中を、あてもなく、希望もなくさまよいつづけることになるのです。
このメッセージは大きな衝撃でした。なぜなら「肉主霊従」で地上人生を送った者が味わう霊界での苦しみが、リアルに語られていることと、私にこの逆の体験──霊的砂漠とも言うべき今の地上界で、「霊的なもの」を求めてさまよい続けたこと──があるからです。
物質界で「霊的なもの」を求めるのと、霊界で「物質的なもの」を求めるのとは真逆でありながら、「ないものを求める」苦しさは同じであり、かつての自分の苦しみとこの霊の苦しみが重なり心が締め付けられる思いがしました。

メッセージは、さらに続きます。
肉体を喜ばせることばかりして、精神的なことにいっさいかかわることがなかったので、当然のことながら、死後も、霊が本来果たすべき仕事にはまったく無縁となります。肉体を満足させることは当然できず、かといって、どのように霊を満足させればよいかも分からないのです。したがって絶望的な退屈に陥り、それがいつ果てるとも知れません。

そこで、それくらいなら、むしろ消滅したほうがよいと思うのです。ところが、霊を消滅させることはできません。肉体は殺すことが可能ですが、霊は殺すことができないからです。
したがって、彼らは、そうした状況に飽き果てて、ついに神のほうに目を向けることを決心するまでは、そのような精神的な拷問の中に身を置きつづけるほかないのです。
ここには、地上人生を無為(精神的無関心)に過ごした者が、霊界で体験する精神的拷問について具体的に述べられており、地上の生き方が死後の生活にいかに影響するかがよく分かりました。
それは、因果律の働きに他なりませんが、これほどリアルにこの世からあの世へと因果律が働くことを目の当たりにすると、地上人生を摂理に従って生きようという思いが強まります。

この通信からは「肉主霊従」のまま霊界入りすることの恐ろしさを痛感しましたが、そこで思うのは、地上で真理に出合えたことの有り難さと責任の重さです。

その責任とは、まず自分自身がこの霊のような哀れな霊として霊界入りしないように「霊的真理の実践に務める」こと。
さらには、この霊のような哀れな霊を霊界に送り込まないように「霊的真理を普及していく」ことだと思います。

霊的真理を手にしていても実践しなければ、死後この霊と同じように、いえ真理を手にしているだけに、もっともっと厳しい状況に自分を置くことになると思います。そこで私はよく自問します。
──今日死んでも、後悔しない生き方をしているか──と。

「後悔しない生き方」とは、ニューズレター28号(心の道場)の21ページにある「3つのこと」を日々実践しているか、ということに尽きます。それも精一杯の努力と熱意をもって…です。その3つとは、
  • 霊主肉従

  • 利他愛の実践

  • 困難やトラブルを、広い霊的視野に立って受け止め甘受する
ことです。ニューズレターには、スピリチュアリストが「日常的にすべきこと」は、この3点に集約されるとあります。

こうして神の摂理と一致した歩みができるようになれば、いつ死んでも後悔しないで済みますし、霊界へいってから直ぐに地上人類救済活動の霊団の一員となって「地上のスピリチュアリスト」に働きかけることができます。そうなったらどんなに楽しいことかと思います。

「人生はこの世だけではない」ことを知っているだけでは駄目で、現実のものとしてしっかりと受け止め、霊界を視野に入れた永いスパンで自分の人生を見つめなおすこと。同時に「今日をどう生きるか」を考えること。それは非常に重要なことだとこの通信から改めて思いました。

2007年02月15日