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【第161回】私の“座右の書”は「荒野に水は湧く」

私の“座右の書”である「荒野に水は湧く」(キリスト新聞社出版)には“信仰と伝道”の厳しさが綴られていて読むたびに感動します。触発もされますが、まず本の概要を記します。

主人公・升崎外彦氏は寺の跡取りの身でありながら寺院生活に空虚さを感じて悩み、何とかして“充実した生命の道”を見出そうと哲学に走ります。

しかし哲学からは魂の安住も心の糧も得られず、ならばと宗教書を片っ端から読破しますが、唯一「宗教の中で最も下等」と父親から教えられていたキリスト教に関する本だけは読みませんでした。

ですが、宗教からも“充実した生命の道”は得られず、絶望の果てに「ならば清浄なる死の道を…」と死に場所を求めて歩き回ります。そのとき耳に入ってきたのが救世軍の路傍伝道の声でした。

「心を軽くしてくれるならば邪宗でも何でもかまわない!」とヤソ(キリスト教)に入信し生涯をイエスへの信仰と伝道に捧げました。

以上が概要ですが、私が読むたびに感動し触発されるのは、升崎氏の凄まじいまでの求道心と伝道への熱意です。ただキリスト教とスピリチュアリズムでは伝道方式に大きな違いがあります。

スピリチュアリズムの伝道は、霊界が主導し地上人はその道具として働きます。すなわち升崎氏のように来る日も来る日も街頭に立って伝道するのではなく、霊界が導いてきた時機のきた人に霊的真理の所在を知らせるのがスピリチュアリズムの伝道ですが、私はこの伝道方式を大変気に入っています。

なぜなら、自力で釈迦力になって伝道する必要がないことと、道具として霊界から使っていただけるよう自らの霊的浄化に懸命になれるからです。

「自らを霊的浄化せずに真理の伝道に走ってはならない」という厳しいスピリチュアリズムの伝道方式は、そうでなければ自らを霊的浄化しないであろう私の性分(未熟性)にとても合っています。

それに「霊的真理」は、自分で自分を救済する“自力救済”のためのものです。人へ伝導する前に自分を救済するのは当たり前なのです。

このスピリチュアリズムの“自力救済”は、キリスト教の“他力救済(贖罪救済)”と大きく違いますが、これこそが私が“スピリチュアリズム”の教えを本物だと思った所以です。

これほど理に適った宗教、これほど合理的な教えは他にありません。さすが神のつくられた宗教・教えだと感嘆します!!

最後に“伝道の厳しさ”が綴られている箇所を引用します。この箇所は読書会を新設する際の励みになります。
なぜなら読書会新設後、3年程度は参加者が一人も導かれてこなくても、升崎氏の「一千日の悲願」に倣って、霊界の道具として待ち続ける決意が持てるからです。ちなみに一千日は約3年です。

外彦氏はこの町に住む人一人でも主に捧げようと、一千日の悲願をかけて路傍伝道を始めた。雨の日も、雪の日も街頭に立つことを止めなかった。聴き手が一人もないのに、彼は軒先に傘をつり、傘に向かって伝道を続けた。毎日々々一晩もかかさず街頭に立ってキリストの話をする彼を、人々はヤソ気ちがいと呼んだ。しかし一人の信者はおろか、一人の求道者も与えられなかった。
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2017年10月16日